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春謡妙右衛門 偲ぶ


来たる2月11日 春謡會 春謡妙右衛門 追悼舞踊公演が開催されます


『あいつとは長いつき合いで…』 なんて よく云いますね

春謡とは [以降敬称略させて頂きます] 

私が中学生、春謡が高校生の頃から歌舞伎座、演舞場等、行く先々の劇場で

顔を合わせては芝居談義をする… ませた学生同士、兄弟のお付き合い

四十年以上のお付き合いになります。


初めて春謡とリサイタルを開いたのは昭和57年8月 

青山の草月ホールで [女形二人会]でした

胡蝶は16歳で 本名の 小松一 を名乗っていました





春謡は当時 花柳寿々輔仁 を名乗っていました

演目は、春謡 娘道成寺 胡蝶 鷺娘

芝居は三島由紀夫作 近代能楽集より [班女]

春謡の 花子 胡蝶の 実子 でした。

もったいないことに、六代目の中村雀右衛門丈に

お稽古を付けて頂いた事を思い出します

今思えば空恐ろしい事です


当時の私たちは、怖いもの知らずでした。

お互いに研鑽を重ねつつ… 

歌舞伎、新派、文学座、東宝歌舞伎、宝塚、文楽… 

ありとあらゆる舞台を 観て観て見まくって過ごしました





そしてよく呑み、よく喧嘩し、よく旅行しました

とてもお目に掛けることも出来ない… お馬鹿な写真ばかりです…




かくして私は歌舞伎の研修生を経て、女形としての道から逸脱して

勘違いの女性化が進みました。

春謡は真っ直ぐに古典舞踊の道を進んでいました。

ショーステージなどの経験を経てから、

新日本舞踊に本格的に取り組んだ私の誘いで

春謡も新日本舞踊の境地を切り開いていきました。

全盛を極めていた新舞踊の世界に少々陰りが見え始めた25年程前に、

新舞踊の世界に私と春謡がデビューした形です。


それからはお互いの意見の違いから二十年程距離を置いた時期を経て

春謡のあまり良くない病状の事を知らされました。

元気なうちに、何度でも一緒に踊りたい

まだまだ演り残したものが沢山ある…


コロナ真っ只中の令和2年8月 二十年ぶりの共演を果たしました

二人で、数えきれられないほど踏んだ浅草公会堂








二十年の時の間は感じませんでした

お互いにわかり合っている 間 が蘇りました

それから昨年にかけて5回程 舞台をご一緒する事が出来ました




昨年の7月には 本当に辛い体を押して宗山會に出演して下さいました。

2人で最後の共演となった 婦系図 湯島の場




口に出せない寂しい予感の中で、お互いに懸命に務めた舞台


翌月の8月には春謡妙右衛門プロデュースで、夏の特別企画の舞台

江戸東京博物館大ホール

春謡流の皆さん、咲貴晴若御家元、

歌舞伎俳優の市川右若丈

春謡を長年支えてきた皆さんとの共演の舞台に

胡蝶も参加させて頂きました


激痛をこらえての最後のトークショー

『まだまだこれから素晴らしい舞台を作っていきたい…』

との力強い言葉をご来場のお客様に聞かせてくれました

本当にそれが最後の舞台となりました


最後の最後まで 舞台復帰を信じて病と闘った春謡


最後の舞台から40日 令和3年9月19日

夫人の妙舟さんと 私が手を握り締める中

60歳の若さで旅立ちました

舞台に全てを捧げ、踊りとともに歩んだ人生でした







棺には春謡の大好きだった 雪の結晶 雪輪 が象徴的な

歌舞伎の[祇園祭礼信仰記] 雪姫の衣裳が掛けられました


まだまだ悲しみの癒えない春謡流の皆さんですが、

心を一つに合わせ、亡き春謡妙右衛門の志を継ぎ


来月2月11日 祝日 浅草公会堂 にて

春謡會 春謡妙右衛門追悼舞踊公演 が開催されます。

私も出演させて頂きます。

皆さん春謡を忍んでの懐かしい演目を御披露させて頂きます。


胡蝶は 飢餓海峡 [春謡妙右衛門振付バージョン]

と、咲貴晴若家元と [雪舞い] を踊らせて頂きます

涙でお化粧がボロボロにならないように…


コロナ禍の状況では御座いますが、

是非ご来場下さいますようお願い申し上げます。





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